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今から3〜4千年前、ペルシャ(現在のイラン)に中央アジアからアーリア民族が移り住んできたことからペルシャの歴史は始まります。長らくの間は、いくつもの王国ができてはつぶれ、小国家があちらこちらで作られていました。そのうちの一つ「古代エラム王国」の遺跡「チョーガザンビル」がイラン西部で発見されたのはなんと1935年。何千何百年もの時間、古代歴史の遺跡は眠っていたのです。これからもまだ、悠久の歴史をたどる発見は続くことでしょう……。


3000年の時を越えた遺跡「チョーガザンビル」


さて、そのペルシャの歴史が大きく転換したのは、紀元前6世紀といわれています。パルス族キュロス2世のアケメネス朝ペルシャが、勢力を上げていたメディア国家を倒し、周辺民族や国家を一つにまとめたのです。

キュロス2世が建設した首都「パサルガダエ」

ダリウス1世の浮き彫り。
キダリスという帽子をかぶり、黄金の錫杖を手にして、高い王座に腰掛けた姿。

(ペルシャの語源はこの民族名“パルス”からきているといわれています。)
キュロス2世は諸民族の文化を尊重し、一定の自治権を与え、奴隷や虜因は解放して寛容な統治政策を行いました。魅力的な国家は拡大を加速させ、彼の息子の時代にはエジプトまで広がっていました。その英雄ぶりは旧約聖書にも登場しているほどです。
第3代ダリウス1世の時代には帝国はさらに大きく発展します。それまでに広げた全オリエントを統一して中央集権体制を取り、統治と監視体制を整えたその政策は、好景気と税収の増加をもたらしました。また、彼の時代には有名な世界遺産「ペルセポリス」宮殿の建設が開始され、一年の始まりとされている春分の日には全土から貢ぎ物が献上され、大祭の宮殿として華やぎました。
しかし繁栄の限りを尽くすなかで、ダリウス3世の治世期はギリシャとの戦いに何度も苦戦しました。加えて、神格化されつつあった王権体制に不満が募っていた民衆は各地で反乱を起こし、遂には東方遠征中のアレキサンダー大王率いるマケドニア軍にペルセポリスを陥落され敗退。AD330年、アケメネス朝は滅亡してしまったのです。

古代オリエントを征服した王達の夢の跡「ペルセポリス」


一方で、かつてのアケメネス朝のような華やかな時代を願う人も多かったこの時代。アケメネス発祥の地パルスからササン朝が興り、パルティアを攻めます。徐々に南部から勢力を強め、BC226年にペルシャ人国家が復活、ササン朝ペルシャが誕生します。
ササン朝はアケメネス朝と同じく、中央集権を行う一方、東はインドや中国、西はローマ帝国との外交も積極的に行い、独自のペルシャ文化を作り上げていきました。



ササン朝の時代に、ペルシャから南西のアラブ地域ではイスラム教が成立しました。「左手にコーラン 右手に剣」と呼ばれるほど戦闘的だったアラブ人は、次第にペルシャの金・銀・絨毯を得ようとササン朝に攻め入ります。何度となく戦いに敗れたササン朝はBC642年、事実上終焉を迎えました。ゾロアスター教に変わってイスラム教が国教になったのもこの頃です。



そんな富の時代でも対立は発生し、1925年の第一次世界大戦までの150年間はカジャール王朝が支配しました。首都をテヘランに於くようになったのはこの頃からです。



カジャール王朝は、石油の利権を狙って躍起になる国々から食い物にされてしまうほど、権威を失墜させてしまった国家でした。そんな中、1921年にイギリス帝国の後押しで、コサック部隊の指揮官だったレザー・ハーン(後のレザー・シャー)が彗星のごとく現れ、クーデターを起こして成功します。そして4年後、国民の圧倒的な支持を得て、自身が皇帝となってパハラヴィ朝を興します。
レザー・シャーは軍隊などの近代化を推し進め、再び強い国家の構築を目指しましたが、第二次世界大戦でドイツと同盟を結んで連合軍に侵攻され、退位に追い込まれます。



現在もテヘランに残るパハラヴィの 「サアダバード宮殿」

そのように内政を弱めたイラン(1935年にペルシャから改名)の石油をめぐって、ソ連やイギリスにますます国力を弱められていた頃、政権を取ったのはムハンマド・レザー・パハラヴィです。
彼はアメリカ指導のもとで「白色革命」という名の近代化を推し進め、再生を図ります。
パハラヴィは、栄光のペルシャを取り戻そうという強い思いで政策に取り組むのですが、その思いが強すぎたのか、性急すぎるほどのスピードで事を運んだ為に貧富の差が激しくなり、民衆の反発を買うようになります。親米的になり過ぎてイラン独自の国家を失いつつあった政府を見て「これではアメリカの国になる」と憂慮したイスラム教会からも反発を買うようになります。
この機に民衆を取り込んだイスラム教界は1979年、ホメイニ氏を代表にイラン・イスラム革命を起こし、それによりペルシャ最後の王朝パハラヴィは滅びます。
性急な近代化が正しかったのか、宗教や文化を堅く重んじる国家が正しいのか…… この問題は今の世を生きる人々にとっても判断が難しいテーマです。

 

西アジア全域を支配化に治めた世界史上初の大帝国。ダリウス1世の時代にペルセポリス建設。20世紀に発見されたパジリク絨毯はこの時代に作られたものと推定。東方遠征中だったアレキサンダー大王によって滅ぼされる。

ミトラダテス2世の時代に漢と交易関係を結ぶ(この交易の道がやがてシルクロードとして発展)。

ゾロアスター教を国教とした絶対君主制を背景に、ヨーロッパにも影響を与える文化の中心地として栄えた。

ササン朝ペルシャはアラビア人に滅ぼされ、イスラム教がもたらされる。

フィルドスィ「王書」完成

チンギス・ハンによりセルジューク朝は滅ぼされ、モンゴルに支配される。

ペルシャ絨毯の歴史の中で最も重要な時期と言われている時代。特に第5代シャーアッバス1世は、美術・工芸に造詣が深く、ペルシャ文化発展に大きく貢献した。

急速な近代化政策で西アジア随一の繁栄と安定をもたらすも、宗教界との対立を起因として起こった革命により滅びる。

革命政権はホメイニ師を最高指導者に、1979年4月に「イラン・イスラム共和国」の樹立を宣言。イスラム法を国の法律と定め、政教一致の国家体制を打ち出した。



アレキサンドロスの手で滅びた帝国は、その後、カスピ海東方から発展した遊牧騎馬民族パルティア人により治められます。この時代は、統治と監視を重視してきた後期アケメネス朝と違い、周辺各国との自由な交易が始まり、哲学や宗教(ゾロアスター教、キリスト教、仏教…)も盛んになるなど、人類の転換期でもありました。ペルシャは、西洋とアジアを結ぶシルクロードの発進点・中継点として栄え、絨毯にもアジアから伝播したシルクが取り入れられるようになりました。


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その後ペルシャは1000年近くにもわたる長い月日を、異民族(アラブ、トルコ、モンゴル)による支配のもとで過ごします。そしてやっと1501年の16世紀始まりに、ペルシャ人王朝サファビー朝がもたらされ、当時のモンゴル支配を脱却します。

イスファハン「チェヘルソトゥーン宮殿」に残る「トルコ高官を迎えるシャーアッバス2世」の絵

現在も人々が集い、周辺バザールもにぎやかな「イマームの広場」

この時代は、シャーアッバス1世をはじめ、芸術・美術に力を注いだ王が多く、長い間独自のペルシャ文化の発展が滞っていた反発かのように、大いなる文化の発展を遂げます。その代表と言えるのが当時の首都イスファハンの「イマームの広場」です。壮大な広場を取り囲むきらびやかな宮殿とモスクの数々。イマームの広場は、長年にわたる異民族支配からペルシャ人を解放し栄華を極めたサファビー朝の繁栄の象徴なのです。
民衆のあいだでは、富の象徴として絨毯と絹織物が多く行き交い、工房が競い合って芸術性の高い逸品が数多く作られました。



パハラヴィの妻「ファッラ妃」

イラン・イスラム共和国
となった革命により、イランには「反米」というイメージが作られましたが、それは石油を思うように得られなくなったアメリカが、イランへの制裁のためにメディアに宣伝した造語とも言えます。イランの人々のオープンで友好的で活力みなぎる姿をご覧になれば、危険な国ではないことが一瞬にしてお解かりになるでしょう。そんな近年のイランにつきましては、最近のイランのページでご紹介しておりますので、そちらも是非ご覧下さい……。